巨人随一の苦労人!?脇谷亮太の背番号の移り変わりが凄い!?
何気なく読んでいたベースボールマガジンの記事にその名前があった。
明日からいよいよキャンプイン!という時に、何故、脇谷の記事を書くのか…
自分でもよくわからないが、今書かないと、脇谷の記事を書くことが一生ないかもしれない。だから、書くしかない笑
実は現役時代、すごい数の背番号を背負ってきた脇谷。それぞれの背番号に染みついた脇谷の伝説とは?
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脇谷の現役時代の成績や年俸は?
まず名前からしてワキ役感の拭えない男。
しかし、実際にその活躍はワキ役だった……
育成落ちから人的補償まで波乱万丈なワッキーの成績や最終年俸は?
脇谷の現役時代の成績は?
脇谷の現役時代の通算成績は
850試合出場、通算打率.255、本塁打18本、119打点、67盗塁。
最終年は1軍出場がなく、実質11年での成績となる。
キャリアハイは、2010年。132試合出場、打率.273、7本塁打、43打点を挙げている。
西武時代も、守備固めでの起用が多かったものの、118試合に出場。
一時はスタメンを張り2015年に打率.294の成績を残した(規定打席は未到達)
脇谷の現役時代の年俸は?
脇谷の入団時の年俸は1200万で、最終年の年俸は2000万。
10年以上、入団時の年俸を下回ることなく活躍し続けたのはさすがだ。
基本的にずっと2000万円前後の印象だが、キャリアハイを残した翌年の2011年は4400万となかなかの数字をたたき出している。
ちなみに、西武時代は2400万だったようだ。
脇谷の背番号の移り変わりが凄い!?
実は、脇谷は巨人でも稀に見るほどの多くの背番号を背負ってきた。
57→23→023→23→7→2→12と、実に6度の変更を経験した。
それぞれの背番号に脇谷のドラマが染みついている……かもしれない。
始まりは背番号57
ドラフト5位の入団時は背番号57。
1年目の2006年は60試合に出場。打率.270、1本塁打、11打点とさっそく1軍定着。
社会人卒としては申し分ない働きをした。
そして、斉藤和巳の完全試合を阻止した上、牽制死することで準完全試合という珍事を球史に残すというワッキーらしい活躍も見せる。
後に背番号を引き継ぐ鈴木尚広と共に、「ダブル1番」(命名・原)という起用法でチャンスメーカーを務めた。
期待と共に背負った背番号23
同学年で、当時ヤクルトの青木宣親を目標にせよという原の厳命によって、2007年から背番号23を背負う。
その青木が首位打者を再び獲得するなど、レジェンド化が進む反面、ワッキーはパッとしないまま数年を過ごす。
一応、2010年のキャリアハイ時もこの背番号のため、脇谷は23番というイメージが強い人も多いかもしれない。
2011年に、阪神戦でセカンドフライを落球したものの、審判が誤審でアウトを宣告。もちろん阪神ファンからは大ブーイング。
これに対して脇谷は「テレビの映りが悪いんじゃないですか?」と謎の反論をし、火に油を注いだ笑
そして、阪神ファンから「脇谷、テレビ買うてくれや!」という後生まで語り継がれる皮肉なヤジを浴びることになる。
育成契約で屈辱の背番号023
2011年、落球事件の影響か、打撃不振に陥った脇谷は、(いろんな意味で)はやすぎた盗塁王、藤村大介にレギュラーを奪われ、さらに怪我を負い、なんと自由契約になってしまう。
その後、巨人と育成契約を結び、背番号023を背負い再出発を図る。
昨年までのレギュラーがあっさりクビを切られるという非情な世界で脇谷は何を思ったのか……しかし、それはまだ脇谷の波乱万丈人生の始まりにすぎなかった。
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取り戻した背番号23
2012年をほぼリハビリに費やし、手術も経験。
再び支配下登録され、背番号23を取り戻す。
しかし、「今年ダメならユニフォームを脱ぐ」という覚悟も虚しく1軍と2軍を行き来。
49試合出場の打率.244、本塁打0、打点8とう残念な結果に(でも結局ユニフォーム脱がなかった)
そして、FA加入した片岡の人的補償として西武への移籍が決まる。
西武での背番号7
2013年。西武へ移籍した脇谷は、片岡のつけていた背番号7を背負う。(巨人の23はキューバの至宝セペダさんが引き継いだ)
人的補償の選手になかなかいい数字をあげたなぁと思う。
西武でのワッキーは、主に守備固めながらも1軍で活躍。
結果的に、巨人に残っていればほぼ出番はなかったであろうワッキーに、活躍の場が与えられ、この人的補償は悪くなかったと思われたのだが……
2015年オフに、FA権を行使し巨人へ。
これは、FA人的補償による移籍を経験した選手で初の、過去に所属していた球団へのFA移籍というかなりのレアケースになり、巨人初のFA出戻り選手となった。
巨人復帰でまさかの背番号2
2016年に巨人に復帰した脇谷は、まさかの背番号2!!
これは、青い稲妻こと松本匡史や、くせ者元木大介、ガッツ小笠原や井端といった名選手が背負ってきた番号。
それを何故脇谷に!?と思ったファンも少なくないかもしれない。
それまでつけていた23番はFA加入の相川がつけていたので仕方なかったのか、人的補償で西武へ移籍してもなお、巨人に戻りたいと願った脇谷への手向けなのかはわからないが
とにかく、この背番号2を背負い、脇谷が最後の花を咲かせる……こともなく、打率.157という残念な数字を残してシーズンを終えた。
ただ、シーズン終盤、広島の独走をなんとか阻止しようと2位の巨人が食らいつくなかで、8月23日の東京ドーム広島戦で、サヨナラホームランを放つ。
僕は偶然この試合を観に行っており、これが僕の観た最後の脇谷の打席だったため、非常に印象に残っている。
最後の背番号12
2017年、FA加入した陽に背番号2を譲り、前年で引退した鈴木尚広が背負っていた12を継承。
かつては、ダブル1番としてタッグを組んだ相棒だけに、思うところもあったかもしれない。
しかし、大した活躍をすることはできず、2018年には1軍出場がないまま、引退を表明した。
公式戦での現役最終打席となるファーム・日ハム戦では、同じく現役引退を表明した、かつての同僚・矢野が代打逆転ホームランを放ち球場を沸かせる中、同点の9回裏1死二塁の場面に代打で登場。
大歓声に包まれ、その波乱万丈な野球人生の最後を、多くのファンが見守る中、申告敬遠されるという事態が発生。
最後の最後まで、なんかこうスマートにいかないあたり、本当に脇谷らしい幕切れだったと言えるかもしれない……。
(その後、ファーム日本一決定戦で代打出場し、凡退している)
まとめ
目まぐるしく変わる背番号とともに、自身の環境も大きく変わっていった脇谷。
入団から育成落ち、支配下再登録、人的補償による移籍、FA権行使による移籍、これだけの経験をした選手が他にいるだろうか?
現在、脇谷は巨人のスカウトに就任している。
決して、巨人のスター選手ではなかった脇谷だが、その尋常ならざる経験を糧に、良い選手を発掘してもらいたい。
個人的には、そんなに好きな選手じゃなかったが(打率1割代の脇谷じゃなくて若手を使ってほしかった)、あのサヨナラホームランはずっと忘れないだろう。